この記事で解決できる悩みや疑問
- 川崎憲次郎選手の経歴を知りたい
- 川崎憲次郎選手の若い頃の成績を知りたい
- 川崎憲次郎選手の故障の原因を知りたい
短いプロ野球人生ながら、記録にも記憶にも残る名投手の川崎憲次郎選手
川崎憲次郎選手は若い頃、どのように活躍して、なぜ故障してしまったのでしょうか
この記事では、川崎憲次郎選手について詳しく解説していきます
この記事の内容
- 川崎憲次郎選手の通算成績
- 川崎憲次郎選手の経歴
- 川崎憲次郎選手の野球人生はなぜ短かったのか
- 川崎憲次郎選手の有名な娘さん
この記事を読むと、川崎憲次郎選手の通算成績、経歴、なぜ故障したのかまでわかります!
では、解説していきます
川崎憲次郎選手の通算成績
川崎選手のプロ12年間の通算成績はこちらです
川崎投手の通算成績
- 237登板
- 88勝81敗
- 1411.1投球回
- 874奪三振
- 防御率3.69
また、先発投手として数々のタイトルを獲得してきました
川崎投手の主なタイトル
- カムバック賞(1993年)
- 日本シリーズMVP受賞(1993年)
- 最多勝利(1998年)
- 沢村栄治賞(1998年)
プロ9年目の1998年に、最多勝、沢村賞受賞と全盛期を迎えます
また、1993年には大きな怪我を乗り越え、カムバック賞も受賞しています
そんな川崎選手はどのような経歴を経て、プロ野球選手になったのでしょうか
川崎憲次郎選手の経歴
川崎選手の経歴を紹介します
幼少期〜高校時代
1971年に大分県佐伯市に誕生した川崎選手
大分県立津久見高校に入学した川崎選手は、高校3年時に春の選抜大会、夏の甲子園大会と春夏連続出場しました
ともに春夏連続でベスト8に進出しています
夏の甲子園大会では、「今大会No.1右腕」と称されるほどすでに注目を浴びていました
ピッチング能力の高さを見込まれ、1988年にドラフト1位でヤクルトスワローズに入団します
プロ1年目〜全盛期
高卒ながらプロ1年目から先発ローテーションの一角を担うと、13試合に登板し、4勝1完封と上々の滑り出しを見せます
2年目には12勝をマークし先発投手陣の柱に定着すると、翌1991年も14勝し、中心選手への階段を順調に登りました
ただ、4年目のシーズンに悲劇が川崎選手を襲います
1992年の春季キャンプでノック中にボールを踏んでしまい、足首を捻挫してしまいました
球団に捻挫を隠しながら、開幕に向けて調整していくうちに、肩に負担がかかり肩を故障してしまったのです
肩の故障の影響で4年目のシーズンは登板することができず、1年を過ごすことになりました
その後、怪我から復帰した1993年は、27試合登板で10勝5完投と結果をだします
同年、日本シリーズに進出したヤクルトスワローズは4勝3敗で埼玉西武ライオンズを下し日本一に輝きます
日本一の原動力となった川崎選手はカムバック賞と日本シリーズMVPを受賞し、華々しい復活を果たしました
奇跡の復活を果たしたように見えた川崎選手でしたが、ここから怪我との長い戦いがはじまりました
1994年〜1997年は肩の故障が再発し、満足のいく投球ができずに苦しい期間が続きます
今まで自信のあったストレートが打たれはじめ、投手としての寿命を感じはじめていました
そんな、1997年に転機が訪れます
転機となったのは、野村克也監督の「シュートを投げろ」という言葉でした
右打者の胸元に食い込むシュートを習得し、空振りではなく内野ゴロで打ちとるピッチングに変化
「打者のバットを折られたときの顔を見るのが好きになった」と語る川崎選手
このモデルチェンジが功を奏し、1998年には打たせてとるピッチングで全盛期を迎えます
1試合通じてのスタミナが増加したことで、勝負どころでギアを入れ替えられる投球スタイルが実現
1998年シーズンは、17勝10敗で最多勝を記録し、投手の最高の栄誉である沢村栄治賞も受賞しました
プロ晩年時代
2000年オフ、FA権の行使を宣言した川崎選手が考えていた選択肢は「ヤクルト残留かMLB挑戦でした」
しかし、FA宣言後のヤクルト球団の対応が悪く、川崎選手のヤクルトへの気持ちは離れていきました
MLBレッドソックスと中日ドラゴンズからオファーをもらった、川崎選手は、中日球団幹部の熱心な呼びかけにより、中日ドラゴンズに4年契約で入団します
当時の中日は、巨人に大きく負け越しており、「巨人キラー」として有名だった川崎選手を欲しかったと言われています
ただ、2002年のオープン戦で右上腕骨三頭筋に違和感を感じると、そのまま1軍で投げることなく長期離脱をすることになります
監督が山田久志さんに代わった2002年~2003年も二軍戦に登板したのみで、3年連続一軍登板なしに終わります
原因不明の右肩痛は、全国の整体・鍼に通っても治りませんでした
4年契約の最終年、落合監督はここ3年間一度も一軍で登板していない川崎選手を、開幕投手に指名します
川崎投手は、痛み止めの坐薬・飲み薬を併用して1,274日ぶりの一軍マウンドに上がりましたが、1回1/3を5失点で降板しました
落合監督と川崎投手とのやりとりや真意はこちらの本に詳しく書いてありますので、気になる方は是非ご覧ください
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10月に戦力外通告を受けた川崎投手は、引退を決意します
引退試合も開催され、ヤクルト・中日の両チームから愛された川崎憲次郎選手はその短いプロ野球生活に別れを告げました
川崎憲次郎選手の野球人生はなぜ短かったのか
川崎投手の野球人生が短かった理由は、度重なる「肩の故障」です
1992年に初めて肩の故障をすると、現役生活で合計3回の離脱、とくに、中日移籍後の2001年の故障が川崎選手の選手寿命を縮めました
「オープン戦で投げた何気ない一球で肩の奥で何かが砕ける不気味な音がした」と語る川崎選手
翌日から右肩が上がらなくなり、投げるどころかTシャツを脱ぐことさえも困難になったそうです
リハビリして登板の準備を整えても、登板するとまた痛くなってを繰り返しました
肩が故障した原因、なぜ痛いのかの原因は、調べても分からず、現在も不明のままです
怪我がなければ・・・と、その不運さが悔やまれる選手の一人です
川崎憲次郎選手の有名な娘さん
川崎選手の娘は、モデルで活躍する川崎琴之さんです
川崎 琴之さん、オスカープロモーション新人です…。LINE LIVE2週間限定配信中。。。🌸小春🌸またのん!
— *:❤ たか ✨+。.☆.+*✩⡱:🌹✨🌙 (@padi6382j) November 14, 2018
応援よろしくお願いします🤗 pic.twitter.com/7Bf7QEEkEr
大手芸能事務所のオスカープロモーションに所属する川崎琴之さんは、2023年に日本レコード大賞にアシスタントとして登壇
その美貌と愛嬌のある笑顔で人気急上昇中です
今後は父・川崎憲次郎選手とのメディア出演が期待されますね
まとめ
今回の記事では、川崎憲次郎選手について解説しました
最後にポイントをまとめます
ポイント
- 高卒ルーキーながら12勝をマークした川崎選手は、沢村賞を受賞するほどのエースとして活躍した
- 投手としての寿命を感じていた時、野村監督からの「シュートを投げろ」のアドバイスで復活した
- 川崎選の肩の故障の原因は、調べても分からず、現在も不明のまま
川崎選手は、将来球界に戻ってきて、是非、活躍して欲しいですね
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